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大正生まれの木造校舎(平成22年に解体されてしまいました)
どこにある?なぜ残った?どうやって移転させた?
吉田西小学校の貴重な木造校舎が、今でも残っています。木造校舎を巣立った卒業生にとっては、思い出のたくさん詰まった、吉田西小の「文化財」であり、今でもなつかしく仰ぎ見る地域の人がたくさんいます。
〜どこにある?〜
木造校舎は、吉田西小学校北方の建設会社敷地内にあります。昭和43年、校舎建て替えの際に、木造校舎の東側2教室分を引き舞で移転させました。 吉田西小学校の北側窓からは、瓦屋根の木造校舎を見ることが出来ます。
〜なぜ残った?〜
当時は養蚕が盛んで、養蚕小屋として利用するために移転させました。現在は、養蚕小屋としての役目は終え、倉庫として利用されています。今でも、天井に残る蚕棚には、蚕の繭が残っています。
〜どうやって移転させた?〜
東側2教室分とはいえ、大きな学校を移転させるのは大変だったそうです。まず、学校内で、校舎を時計回りに90度動かしました。その後、田圃の中にレールを少しずつ敷きながら移動させました。吉田西小学校から建設会社の敷地まで、田圃の中を北へ一直線ですが、当時は耕地整理前だったので、途中には2本の川が流れており、そこには橋を架けました。橋を渡すときには、橋が壊れて、その場で校舎を解体することも検討したそうです。木造校舎が500m先の建設会社敷地に着いたのは、約2週間後のことでした。学校が動いている様子を見て、当時の人たちは、「学校が歩いた!」と言っていたそうです。
いつできた?
大正3年、吉田西小学校が現在地に移転した際、最初に建てられた校舎です。明治6年の開校当初は、近くにある東福寺というお寺の境内を借りて授業を行っていました。しかし、大正2年、児童数の増加により、近隣の民家を借りて教室にするようになったことから、現在地(下坪山959番地)に移転し、校舎を新設することになりました。大正3年4月の開校式当日は、季節はずれのぼたん雪が降り、開校記念行事として、校舎裏の田圃では草競馬が行われました。校庭が広くなったため、2〜3年に1回程度、運動会も行われるようになりました。
木造校舎そのものが少なくなってしまった現在、栃木県内に明治・大正時代の校舎が残っている例はほとんどありません。那珂川町の小口小(明治・大正期の建築で県内最古「もう一つの美術館」として利用)、佐野市の旧三好小(明治44年建築・移築後、郷土資料館として利用)、那珂川町の和見小(大正6年建築)程度で、わかっている範囲では、県内で3番目に古い木造校舎です。
校舎の特徴は?
〜元祖オープンスペース?仕切りを外して講堂に〜
現在も残る東側2教室の教室間の仕切りは、取り外し可能な構造になっています。いわば、「オープンスペース」で、仕切りを外すことで「講堂」として利用することが出来ました。「講堂」では、卒業式や、学芸会などが行われたそうです。
〜学級数「6」、教室数は「5」〜
教室の数は、5つ。6学級に対して1つ足りませんでした。そこで、東端の教室(現存)では、長い間複式授業が続けられました。複式授業のお陰で、上下を通した幅広い友情が芽生え、兄弟の様な親近感が、成人してからも関係部落の溶け合い・睦み合いに役立ったそうです。
〜洋風トラス構造+和風寄せ棟構造〜
県内に現存している木造校舎の多くは戦後に建てられたものですが、その多くは屋根が単純な切り妻形状です。しかし、本校の木造校舎は、明治・大正時代の学校建築の特徴か、和風の寄せ棟形状になっています。一方、中央部は、洋風小屋組(トラス構造)で、伝統の技術と、舶来の技術が融合された形になっています。 「吉田村吉田尋常小学西校々舎新築工事仕様書」には、「隅合掌」「隅眞束」という言葉が見られます。神奈川県の旧半原小学校木造校舎建物調査報告書には、隅合掌や隅眞束について詳しく説明が出ていますが、要約すると次の通りです。
「『隅合掌』は、技術的に高度な構造で、トラス構造に隅合掌を加えることで、三次元的に強度を持たせることが出来る。屋根勾配にあわせて、すべての部材を事前に机上で測りだして刻み込む必要があり、精緻な技術がなければ成立しない。『隅眞束』は、トラス構造を支える最も大切な部材(キングポスト)であるが、隅合掌を加えると、合掌材の他、隅合掌・妻合掌などの部材が集中して取り付き、複雑な接合の組み合わせを事前にイメージして炭付けをする、高度な職人芸が必要である。」
詳しい屋根構造は、実際に見てみないとわかりませんが、今や貴重な木造校舎の中でも、数少ない寄せ棟形式を持つ、希少なものであると思われます。