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大正3年から残るもの
門柱
吉田西小学校は、大正3年4月、現在の場所に移転しました。確実に、その当時から残っているものと言えば、「木造校舎」と「門柱」です(木造校舎については、「大正生まれの木造校舎」の項を参照してください)。ここでは、門柱について紹介します。
この門柱は、現在東門の両脇に立っています。2本ある内、南側に立つ門柱の裏側には、大正3年4月4日に、吉田村大字下坪山の伊澤氏により寄付された旨が書かれています。最初は校庭南側に正門があったので、そこに建てられましたが、校庭の拡張や、体育館の建設に合わせて何度か場所を移し替え、現在の場所に落ち着きました。また、学校名も当初は大きく、「吉田尋常小学西校」と書かれた看板が、門柱に掲げられていましたが、現在は小さく「吉田西小学校」と書かれた白い表札のみが埋め込まれています。今でもよく見ると、昔の看板を取り付けていた金具の跡が、南側の門柱に残っています。
やなぎの木
校歌の2番では、やなぎの木が次のように歌われています。
やなぎの風に誰が声も
明るい師との交響譜
自主と自由と責任と
学びの窓のさわやかに
校歌にも歌われるやなぎの木は、東門の門柱の脇にあります。吉田西小学校では誰もが目をひく、最も大きな大木です。昔から生えているのは間違いないのですが、いったいどれ位「昔」からなのか、はっきりしたことがわかりませんでした。
5年生のグループはこのことについて、2ヶ月ほどかけて調べてきました。東根、上坪山、的場の高齢者名簿に出ている方ほとんど全てに電話で問い合わせしましたが、わかりませんでした。ただ、少なくとも昭和12〜3年頃、吉田西小学校に通っていた卒業生の方の話では、「そのころすでに大きかった」との事でした。
また、別の話として、戦前、学校の西側には川が流れていて、川沿いにやなぎの木が立ち並んでいた、ということもわかりました。昭和6年に卒業された方の話では、川沿いのやなぎの木は、大正14年の入学当時既に大きかった、とのことでした。校庭西端の川沿いにやなぎの木がずらりと並び、学校全体が桜の木に囲まれて、木造校舎の瓦屋根が僅かに見える、そんな美しい風景を懐かしむ方も多いです。ちなみに、学校周辺に住む子ども達は、「西柳(せいりゅう)地区」というグループに属していたそうです(「西柳」とは、「西側のやなぎの木」という意味)。美しかった川沿いのやなぎ並木は、校庭拡張の際に無くなってしまいましたが、校歌の2番に出てくる、「やなぎ」は、現在もある東門のやなぎの木と、かつて西側にずらりと並んでいた、川沿いのやなぎの木両方を指していたのかもしれません。
一方、学校で最近見つけた資料に、「続・西校の想い出」という、冊子がありました。昭和20年度卒業生の手によるもので、昭和54年11月3日発行となっています。そのなかに、卒業生の担任をされていた担任の先生が「御礼のことば」として、次のような一文をよせていまた。以下抜粋。
「(前略)まもなく全員が西校に到着しました。西校の様子は在学当時とは全く一変し、唯昔のままに残っているのは、当時校舎の西のはじの昇降口にあった糸ひば、東門の所にあった柳の木がそのままの場所で時のうつり変わりを記憶してくれています。上坪山の東福寺の境内から現在の場所に西校が移動して満65年たっていますがその時から残っているのは、この2本と校庭の西北に移植されているさるすべりの木ぐらいのものと思われます。(後略)」
ここから次のことが予想されます。
(1)東門の柳の木は、吉田西小が、現在地に移転した大正3年から、今の場所にあった。
(2)他に大正3年から残っているものとして、いとひば・さるすべり。
(2)の「いとひば」は、PTA広報誌の題名にもなっている「いとひば」で、比較的最近まで現在の4年教室前に残っていましたが、平成10年頃、危険になったため伐採されました。昭和初期、西校の子ども達が陣取りゲームをして遊ぶとき、このいとひばの木をゴールにして、さんざんタッチをしたため、皮がはげて痛んでいたそうです。さるすべりの木については、次の項にのせます。
ところで、やなぎの木はどれくらいのスピードで生長するのでしょうか?幹周りの長さから樹齢がわかれば、「大正3年」の裏付けにもなります。そこで、インターネットで「シダレヤナギ」と検索してみると、「生長は早い」とあります。しかし、幹周りが何mだから樹齢およそ何年、などということはどこにも書いてありません。仕方がないので、いくつかの例を調べてみました。
(1)広島被爆シダレヤナギA:幹周り1.4m、樹齢約80年
(2)広島被爆シダレヤナギB:幹周り3.1m、樹齢約100年
(3)長野県茅野市シダレヤナギ:幹周り4.2m、樹齢約100〜199年
(4)旧制京都一中シダレヤナギ:幹周り0.5m、樹齢約70年
(5)北見市常呂小学校シダレヤナギ:幹周り2.6m、樹齢約150年以上
場所によって、ずいぶんばらつきがあるようで、気候その他の自然環境でもかなり変わるのでしょう。幹周り何mだから、樹齢何年などということは、はっきりとは言えないようです。
ちなみに、西校のやなぎの幹周りをちょっとどきどきしながら計ってみました。すると、幹周り2.3mありました。大正3年に植えられた、樹齢100年以上のやなぎの木だとしても、おかしくはない太さです。
現在わかっているのはここまでで、おそらくは大正3年からあるのではないかと思われますが、古い写真等で確認できれば幸いです(現在東門のやなぎの木が確認できる一番古い写真は、昭和24年撮影の職員集合写真)。
さるすべりの木
さるすべりの木は、現在新校舎前に植わっています。やなぎの木の項で紹介したとおり、昭和54年発行の文集には、大正3年から残るものとして、さるすべりの木があげられています。では、今あるさるすべりの木は、「大正3年のさるすべり」なのでしょうか?そこでこの文集に描かれたさるすべりの木と、現在職員室前に生えているさるすべりの木を比べてみました。その結果、枝振りは全く一緒であることがわかりました。3本ある幹の内、2本が枯れかけて、幹の内部が空洞になっているところも時の流れを感じさせます。以上のことから、おそらくは大正3年当時のものが再移植されたと考えて良さそうです。
このやなぎ、いとひば、さるすべりの3本の木について、「吉田西小学校108年に歩み」の中で、昭和9年に赴任された職員の方が、「校舎の前には、糸ひば、さるすべり、しだれ柳、この3本の木を大切にしていました」、と書いています。