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石板と石筆で学習
明治38(1905)年の日露戦争の勝利による国力の増大と、その基盤となる国民教育の充実を痛感した明治政府により、明治40(1907)年、義務教育が4年間から6年間になりました。
そのため、明治40年度の卒業生は、一度、尋常4年で卒業証書を受け、42年度に、尋常6年で卒業証書を受けました。本校では20人の該当者がいたそうです。
明治43(1910)年4月、本校に入学した東根の塚原又二郎さんは、
「縞の着物で、綿入ればんてんを着ている者が大半でした。天気の良い日は草履ばきでしたが、雨の日は下駄履きでした。雪が降ると足袋がびしょぬれになり、それを足の体温で乾かすのですから、足が冷たくて、勉強どころではなかったです。弁当は麦七分米三分のひどいもので、おかずは梅干しとたくあんが主でした。
また、授業も読み、書き、算盤でしたが、実際は算盤などはなかったと思います。筆記用具は石板と石筆で、上級生になったころ、ようやく雑記帳と鉛筆を使うようになりました。
東福寺に学校があったころは、教室も狭く、校庭は十分な運動もできなかったですが、それでも素足で体操らしいものをやったように思います。」
と、当時の学校の様子を懐かしそうに語っていたそうです。
本校は、大正3(1914)年4月、現在地に新築移転することになりました。