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本堂再建

 東福寺境内に学校があったころは、校舎の裏庭と寺の庭とは、簡単な竹の柵で仕切られていただけで、寺の社務所の中がよく見え、時々、和尚さんが頭を剃っていると、「今日もどこかでお葬式があるんだなあ。」と子供たちは話していたそうです。

 東福寺は、明治15(1882)年の火災で焼失して以来、仮本堂兼庫裡で寺院活動を続けていました。
 「何とかして本堂を再建したい。」との願いは、和尚さんばかりでなく、檀家の皆さんの一致した念願でもあったようです。しかし、本堂再建は大事業であり、なかなか機は熟しませんでした。

 しかも、明治35(1902)年9月に、台風が栃木県を通過し、県内で死者161名、行方不明63名、負傷者328名、家屋全壊8609戸、半壊516戸、流失4120戸という大被害を受けました。東福寺周辺でも、家屋の倒壊、立木の倒伏、農作物の被害など、甚大なものがあったようです。

 さらに、明治37(1904)年の日露戦争後の不景気により、再建話はなかなか進展しなかったようです。
 こんな中でも和尚さんは、境内で遊ぶ子供たちのことを優しく見守りながら、年度毎の計画的な財政蓄積にこつこつと努め、再建相当額を準備したそうです。

 明治38(1905)年、ついに本堂再建に着手し、明治40(1907)年1月、目出度く落慶法要の日を迎えたそうです。類焼以来、25年の歳月が流れていました。