トップページ > 下野市内の小学校 > 吉田西小学校 > 歴史薫る吉田西小学校 > 校庭に陸軍駐留

校庭に陸軍駐留

 大正15(1926)年度からは、6学級となりました。また、8月には、「西校保護者会」が新設され、伊沢修一さんが初代会長に就任しました。学校と保護者が共に手を取り合って、教育向上に邁進するようになりました。

 しかし、昭和時代に入り、昭和6(1931)年の満州事変、昭和12(1937)年の日中戦争、昭和16(1941)年太平洋戦争と、我が国も戦争へと突入し、世の中が戦時体制へと進む中で、本校の教育も、その道に沿ったものになりました。

 昭和12(1937)年7月、「御真影奉安殿」が校庭の隅に新築されました。

 昭和16(1941)年4月、「国民学校令」により、「吉田村西国民学校」と改名されました。 教育内容も「小国民の錬成」を目標に、「贅沢は敵だ」「欲しがりません、勝つまでは」などと、心身を鍛えるものに変化していきました。

 戦争末期には、陸軍農耕部隊西坪山滑走路作業部隊が校舎の半分に当たる三教室に駐留し、運動場も半分を使用するようになったそうです。
 子供たちの学校生活は、勉学よりも農耕奉仕作業が中心になりました。
 また、「産めよ、増やせよ」ということで、児童数も急増しました。縁故疎開児童も京浜方面から転入し、各学級は60人近くなり、全児童数が330人にも膨れあがったそうです。

 昭和20(1945)年7月10日には宇都宮大空襲があり、死者は620名以上、負傷者1128名以上、当時の宇都宮市域の65%以上が焼失しました。
 7月28日には、近くの小金井でも空襲がありました。福島発上野駅行きの上り列車が、駅に到着しようとしたところを、米軍戦闘機3機が機銃掃射をしました。死者31名以上、負傷者70名以上という大惨事になりました。
 そして、8月15日で敗戦、「全ては終わった」の感で、虚脱と混乱から這い上がるには、学校教育も数年を要したそうです。